その宮崎駿氏の数年前の大ヒット作『崖の上のポニヨ』は可愛い歌と絵柄に騙されるが、実はナウシカと同じく世界の終わりと再生の物語なのだ。
優れた芸術家は予言者である。
たとえばルネッサンスの偉人レオナルド・ダ・ヴィンチは、天才的な予見で飛行機/戦車/ヘリコプターなど描き、なんとか動かそうとした。また、日本の天才漫画家手塚治虫氏は、鉄腕アトムほかの作品と、A.I知能ロボットと人間との愛憎/自己矛盾を十二分に描き、ハリウッド作品を大いなる霊感を与えることとなる。
そして、日本アニメ界の巨人宮崎駿氏は世界の崩壊を幾度と幻視している。ナウシカでは高齢者だけの谷の集落と腐海との闘いを描き、自然の代弁者としての王蟲が津波のように村を襲う様を描いている。ナウシカでは、聖なる巫女=処女神としてのナウシカの犠牲で村は救われたが…。
◆◆◆
昨日からTV報道で幾度も幾度も津波に飲み込まれる三陸の町々を観ていた。真っ黒なクジラの肌のような波が生き物のように盛り上がり、すべてを破壊し尽くして行く。この景色は観たことがある。あの黒い波の上に赤い服の女の子が見えはしないか?。そんな奇妙な気持ちになる。ディテールの比較を一つ一つしていけば、津波と映画の類似点が明確になるが、そんなことは余り関係ないように思ったりする。
巨大な自然の猛威と人類は無限に攻防を繰り返して行く。
今は、どこか傲慢になって自然を征服出来たように勘違いしていた。今回の大地震と津波は、自然の猛々しさ、与えることと奪うことが同じ手に載っている海の神々の存在を思い知らせている。
下記は、以前描いた映画のレビュー。そんな視点で再度、鑑賞してくだされば幸いです。
************************************
●崖の上のポニヨ●
●原作・脚本・監督;宮崎駿
●音楽;久石譲
●作画監督/近藤勝也
●美術監督/吉田 昇
●声の出演;奈良柚莉愛/土井洋輝/山口智子/長嶋一茂/天海祐希/
所ジョージ/矢野顕子/吉行和子/奈良岡朋子 他
●主題歌;「海のおかあさん」/歌 林 正子
「崖の上のポニョ」/歌 藤岡藤巻と大橋のぞみ
●DATA;スタジオジブリ作品/110分/c2008 二馬力・GNDHDDT
♪ポニョ、ポニヨ、ポニョ、サカナの子♪
のエンディング主題歌がTVから流れる。日本中の良い子が、夏休みに観たい映画NO.1!!は絶対に『崖の上のポニヨ』だろう。7/24(木)の高崎109シネマズ最終上映にて鑑賞。
●あらすじ
深い海の底、美しいクラゲの大群が揺らぐように泳いでいる。そのクラゲの中を一艘の不思議な潜水艇がゆっくりと進む。中には長髪の紳士が居り、何かのエッセンスを海の注いでいた。その様子を赤い体の小さな魚たちが覗いている。中の1尾は大きく、年長のようだった。年長の1尾が潜水艇を抜け出し、陸地の見える海面に向かう。
宗介はお気に入りのジェットボートを海に浮かべようと崖下の入江にいた。宗介の目の前に赤い魚が浮かんでいた。「死んでいるのかな?」。宗介と赤い魚はこうして出会う。>>>とにかく映画館にGO!!
**********************************
学生の頃、上野にある科学博物館の旧館が好きだった。ヒンヤリした空気に満たされた老朽化した石造りの建物の中には、古代の空気が流れていた。貴重な恐竜化石の標本などと並んで、デボン期の生き物の実物大模型が展示されている。
“人は海に生まれた”
人類の祖先に繋がる様々な古生物は海の泡から生まれた。単細胞生物が、何かの動機で、多種多様な形態を獲得していく。その中でも、海の生物が爆発的な進化を遂げたデボン紀(約4億年前、恐竜誕生の白亜紀まで約2億年余ある)は素晴らしい光景だっただろう。地上は原始巨大森林が繁茂し、昆虫の祖先が君臨、海は巨大な魚が群泳していた。デボン紀は、両生類の誕生した時代でもある。
名作『風の谷のナウシカ』では、巨大な節足動物、昆虫が世界の半分を支配していた。『ナウシカ』の昆虫の王国のイメージはデボン紀にあったのか…。と、『崖の下のポニョ』を観て嘆息した。宮崎さんは、少年の心のツボを確実に押さえている。それは、彼の心の中には、老成した哲人と、好奇心に満ちた少年が融合して棲んでいるからだろう。相反する、二つに心は、引き裂かれた世界の綻びを修復しようといつも邁進している。本作『崖の下のポニョ』もそんな二つの心を感じた。
■■■
『千と千尋の神隠し』で宮崎駿監督は大きな山の頂きを征服(映画界で世界的な成功)していた。『ハウルの動く城』は、山から降りる途中の立ち話のような作品だった。宮崎駿監督は引退宣言をし、充電のために瀬戸内海、鞆の浦近くに家を借り、夏目漱石を読みふけっていたそうだ。そこで生まれたのが本昨『崖の上のポニヨ』だった!?。
宮崎駿監督は、いつもなら数年、長い時は10年近く準備期間をかけ、映画制作にかかる。今回の『崖の下のポニョ』は宮崎監督にしたら奇跡的な速さ!で、完成している。監督は夏目漱石がロンドン在住の時に観た、ラファエロ前派の画家ミレイの『オフェリーア』を鑑賞し、“「精度を上げた爛熟から素朴さへ舵を切りたい」との決断をした”と云う。
←※クリックで拡大
前述したミレイ作【オフェーリア】の画像をお借りした。この絵はラファエル前派の画集には必ずと云っていいほど収録されている。観て判るように、決して素朴な絵ではない。夏目漱石は著作『草枕』の中で“風流な土左衛門”と、この絵を表現している。
“オフェーリア”は、ラファエロ前派の画家達が好んで描いた題材だ。オフェーリアはハムレットに一途な想いを寄せているが、復讐に燃えるハムレットの心変わりに心を病み、唄を歌いながら、川を流れていく。結局は死んでしまうのだが、描かれているオフェーリアは、正確には土左衛門未満(?)な状態で、手には花を持ったりしている。
『オフェーリア』は細部まで、草木の一本一本まで描かれた濃密な空間を持つ。この絵から「素朴さ」を学ぶ宮崎監督の慧眼は、さすが!!と思ったりする。どんなに描き込んでも、心に訴えるものこそが『オフェーリア』の絵の神髄であり、それは鑑賞者に委ねられるものなのだ。
■■■
映画の本筋から脱線してしまったが、本作『崖の上のポニョ』は、【監督の家出、夏目漱石、オフェーリア】の3題噺から誕生している。個人的な根拠のない推測だが、宮崎駿監督は『ゲド戦記』の監督をしたかった筈だ。だか、実際に総指揮をしたのは御子息吾郎氏になる。吾郎版『ゲド戦記』が描いた世界は、濃密な背景画を作り込めるジブリスタッフの力量を十二分に発揮したものだった。この作品を観て、前述の“「精度を上げた爛熟から素朴さへ舵を切りたい」との決断をした”と云う言葉が出たのだと思う。
もう映画を観た古いジブリファンは気付いていると思うが、『崖の下のポニョ』の作画は、『風の谷のナウシカ』以前に戻ったような素朴な動画になっている。現在、アニメ界は文字どおり“爛熟”している。高画素のCGやVFX全盛のアニメ界にあって、監督の仕事は、総合プロデューサーのような煩雑なものに変化してしまった。監督=作家(芸術家)と云った制作環境を維持しながらの作品づくりは、本当に困難な仕事になっている。そんな作家性不在になりがちな、商業アニメの世界に、宮崎監督は大きなアンチテーゼを打ち立てた。それが、手描きにこだわり、素朴な色鉛筆彩画風な背景にこだわった監督の意図であり、思いっきり、ハチャメチャのデフォルメする主人公(ポニョ)の動画表現などに表れている。
■■■
さて、本作『崖の上のポニョ』だが、実に宮崎ワールド的であり、宮崎監督の好きなもので満ち溢れている。本作に一番似合う形容詞は“満ち溢れる”と云うことになるだろう。ポニョや宗介の住む世界は、日本の日常に極めて近い世界でありながら、魔法の力の存在する世界でもある。これは、『ナウシカ』や『ラピュタ』『もののけ姫』『千と千尋』『ハウル』など、他の宮崎アニメの世界と同じだ。“古い時代に滅んだ世界”も、他の作品と共通している。また、人間以外の巨大生物が跋扈する世界観も、同様だ。
宮崎監督は、現在の環境破壊の進む文明社会を深く愁え、かつ強烈に憎んでいる。『ナウシカ』では、最終戦争後の世界だったし、『ラピュタ』でも高度な魔法文明は滅んでいた。そんな破壊された世界でも、生き残った人間は、希望を失わず、生き抜かなければならない。そのメッセージは『もののけ姫』で強く描かれていた。『もののけ姫』の中で、人間の愚かな欲望は古代神“シカガミ”を殺してしまう。すべての生命の親を殺してしまった“オロカナニンゲン”。宮崎駿監督は、“神のいない世界でも生き抜かなければならない人間”をテーマに多くの作品を描いていたが、死んでしまった神は、また再生し、また死を繰り返す存在だったことも描いている。
■■■
本作『崖の上のポニヨ』では前述した宮崎理念を、誰にでも(小さな子供から老人まで)判るストーリーで、ストレートに表現したファンタジー作品だ。宗介の町は深い海に侵食され、人の暮す町は水没してしまう。だが、皆、笑っていた。悲しんでも、笑っても、時間は同じように過ぎていく。老人も子供も、命の重さに替わりなく、命は大きな系統樹として、個体を超えて繋がって行く。
圧倒的な生物の数に、命の重さと、儚さを感じ、ハッピーエンドの至福に満たされる。
◆ブログランキング参加中。乞う!クリック!