活字はこう読む? 雑・誌・洪・積・世

サブ・カルチャー好きの情報スクラップ。ささらほうさらと彼岸を往復。

アジア映画系

幻視者としての宮崎駿『崖の上のポニヨ』

ポニョ/5















 その宮崎駿氏の数年前の大ヒット作『崖の上のポニヨ』は可愛い歌と絵柄に騙されるが、実はナウシカと同じく世界の終わりと再生の物語なのだ。

 優れた芸術家は予言者である。

 たとえばルネッサンスの偉人レオナルド・ダ・ヴィンチは、天才的な予見で飛行機/戦車/ヘリコプターなど描き、なんとか動かそうとした。また、日本の天才漫画家手塚治虫氏は、鉄腕アトムほかの作品と、A.I知能ロボットと人間との愛憎/自己矛盾を十二分に描き、ハリウッド作品を大いなる霊感を与えることとなる。

 そして、日本アニメ界の巨人宮崎駿氏は世界の崩壊を幾度と幻視している。ナウシカでは高齢者だけの谷の集落と腐海との闘いを描き、自然の代弁者としての王蟲が津波のように村を襲う様を描いている。ナウシカでは、聖なる巫女=処女神としてのナウシカの犠牲で村は救われたが…。

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 昨日からTV報道で幾度も幾度も津波に飲み込まれる三陸の町々を観ていた。真っ黒なクジラの肌のような波が生き物のように盛り上がり、すべてを破壊し尽くして行く。この景色は観たことがある。あの黒い波の上に赤い服の女の子が見えはしないか?。そんな奇妙な気持ちになる。ディテールの比較を一つ一つしていけば、津波と映画の類似点が明確になるが、そんなことは余り関係ないように思ったりする。

 巨大な自然の猛威と人類は無限に攻防を繰り返して行く。

 今は、どこか傲慢になって自然を征服出来たように勘違いしていた。今回の大地震と津波は、自然の猛々しさ、与えることと奪うことが同じ手に載っている海の神々の存在を思い知らせている。

下記は、以前描いた映画のレビュー。そんな視点で再度、鑑賞してくだされば幸いです。

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●崖の上のポニヨ●
●原作・脚本・監督;宮崎駿
●音楽;久石譲
●作画監督/近藤勝也
●美術監督/吉田 昇

●声の出演;奈良柚莉愛/土井洋輝/山口智子/長嶋一茂/天海祐希/
      所ジョージ/矢野顕子/吉行和子/奈良岡朋子 他
●主題歌;「海のおかあさん」/歌 林 正子
     「崖の上のポニョ」/歌 藤岡藤巻と大橋のぞみ
●DATA;スタジオジブリ作品/110分/c2008 二馬力・GNDHDDT

 ♪ポニョ、ポニヨ、ポニョ、サカナの子♪
のエンディング主題歌がTVから流れる。日本中の良い子が、夏休みに観たい映画NO.1!!は絶対に『崖の上のポニヨ』だろう。7/24(木)の高崎109シネマズ最終上映にて鑑賞。

●あらすじ

 深い海の底、美しいクラゲの大群が揺らぐように泳いでいる。そのクラゲの中を一艘の不思議な潜水艇がゆっくりと進む。中には長髪の紳士が居り、何かのエッセンスを海の注いでいた。その様子を赤い体の小さな魚たちが覗いている。中の1尾は大きく、年長のようだった。年長の1尾が潜水艇を抜け出し、陸地の見える海面に向かう。

 宗介はお気に入りのジェットボートを海に浮かべようと崖下の入江にいた。宗介の目の前に赤い魚が浮かんでいた。「死んでいるのかな?」。宗介と赤い魚はこうして出会う。>>>とにかく映画館にGO!!

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 学生の頃、上野にある科学博物館の旧館が好きだった。ヒンヤリした空気に満たされた老朽化した石造りの建物の中には、古代の空気が流れていた。貴重な恐竜化石の標本などと並んで、デボン期の生き物の実物大模型が展示されている。

“人は海に生まれた”

 人類の祖先に繋がる様々な古生物は海の泡から生まれた。単細胞生物が、何かの動機で、多種多様な形態を獲得していく。その中でも、海の生物が爆発的な進化を遂げたデボン紀(約4億年前、恐竜誕生の白亜紀まで約2億年余ある)は素晴らしい光景だっただろう。地上は原始巨大森林が繁茂し、昆虫の祖先が君臨、海は巨大な魚が群泳していた。デボン紀は、両生類の誕生した時代でもある。

 名作『風の谷のナウシカ』では、巨大な節足動物、昆虫が世界の半分を支配していた。『ナウシカ』の昆虫の王国のイメージはデボン紀にあったのか…。と、『崖の下のポニョ』を観て嘆息した。宮崎さんは、少年の心のツボを確実に押さえている。それは、彼の心の中には、老成した哲人と、好奇心に満ちた少年が融合して棲んでいるからだろう。相反する、二つに心は、引き裂かれた世界の綻びを修復しようといつも邁進している。本作『崖の下のポニョ』もそんな二つの心を感じた。

ポニョ/4














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 『千と千尋の神隠し』で宮崎駿監督は大きな山の頂きを征服(映画界で世界的な成功)していた。『ハウルの動く城』は、山から降りる途中の立ち話のような作品だった。宮崎駿監督は引退宣言をし、充電のために瀬戸内海、鞆の浦近くに家を借り、夏目漱石を読みふけっていたそうだ。そこで生まれたのが本昨『崖の上のポニヨ』だった!?。

 宮崎駿監督は、いつもなら数年、長い時は10年近く準備期間をかけ、映画制作にかかる。今回の『崖の下のポニョ』は宮崎監督にしたら奇跡的な速さ!で、完成している。監督は夏目漱石がロンドン在住の時に観た、ラファエロ前派の画家ミレイの『オフェリーア』を鑑賞し、“「精度を上げた爛熟から素朴さへ舵を切りたい」との決断をした”と云う。

オフェーリア/ミレイ←※クリックで拡大 

 前述したミレイ作【オフェーリア】の画像をお借りした。この絵はラファエル前派の画集には必ずと云っていいほど収録されている。観て判るように、決して素朴な絵ではない。夏目漱石は著作『草枕』の中で“風流な土左衛門”と、この絵を表現している。

 “オフェーリア”は、ラファエロ前派の画家達が好んで描いた題材だ。オフェーリアはハムレットに一途な想いを寄せているが、復讐に燃えるハムレットの心変わりに心を病み、唄を歌いながら、川を流れていく。結局は死んでしまうのだが、描かれているオフェーリアは、正確には土左衛門未満(?)な状態で、手には花を持ったりしている。

 『オフェーリア』は細部まで、草木の一本一本まで描かれた濃密な空間を持つ。この絵から「素朴さ」を学ぶ宮崎監督の慧眼は、さすが!!と思ったりする。どんなに描き込んでも、心に訴えるものこそが『オフェーリア』の絵の神髄であり、それは鑑賞者に委ねられるものなのだ。

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ポニヨ/3














 映画の本筋から脱線してしまったが、本作『崖の上のポニョ』は、【監督の家出、夏目漱石、オフェーリア】の3題噺から誕生している。個人的な根拠のない推測だが、宮崎駿監督は『ゲド戦記』の監督をしたかった筈だ。だか、実際に総指揮をしたのは御子息吾郎氏になる。吾郎版『ゲド戦記』が描いた世界は、濃密な背景画を作り込めるジブリスタッフの力量を十二分に発揮したものだった。この作品を観て、前述の“「精度を上げた爛熟から素朴さへ舵を切りたい」との決断をした”と云う言葉が出たのだと思う。

 もう映画を観た古いジブリファンは気付いていると思うが、『崖の下のポニョ』の作画は、『風の谷のナウシカ』以前に戻ったような素朴な動画になっている。現在、アニメ界は文字どおり“爛熟”している。高画素のCGやVFX全盛のアニメ界にあって、監督の仕事は、総合プロデューサーのような煩雑なものに変化してしまった。監督=作家(芸術家)と云った制作環境を維持しながらの作品づくりは、本当に困難な仕事になっている。そんな作家性不在になりがちな、商業アニメの世界に、宮崎監督は大きなアンチテーゼを打ち立てた。それが、手描きにこだわり、素朴な色鉛筆彩画風な背景にこだわった監督の意図であり、思いっきり、ハチャメチャのデフォルメする主人公(ポニョ)の動画表現などに表れている。

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 さて、本作『崖の上のポニョ』だが、実に宮崎ワールド的であり、宮崎監督の好きなもので満ち溢れている。本作に一番似合う形容詞は“満ち溢れる”と云うことになるだろう。ポニョや宗介の住む世界は、日本の日常に極めて近い世界でありながら、魔法の力の存在する世界でもある。これは、『ナウシカ』や『ラピュタ』『もののけ姫』『千と千尋』『ハウル』など、他の宮崎アニメの世界と同じだ。“古い時代に滅んだ世界”も、他の作品と共通している。また、人間以外の巨大生物が跋扈する世界観も、同様だ。

 宮崎監督は、現在の環境破壊の進む文明社会を深く愁え、かつ強烈に憎んでいる。『ナウシカ』では、最終戦争後の世界だったし、『ラピュタ』でも高度な魔法文明は滅んでいた。そんな破壊された世界でも、生き残った人間は、希望を失わず、生き抜かなければならない。そのメッセージは『もののけ姫』で強く描かれていた。『もののけ姫』の中で、人間の愚かな欲望は古代神“シカガミ”を殺してしまう。すべての生命の親を殺してしまった“オロカナニンゲン”。宮崎駿監督は、“神のいない世界でも生き抜かなければならない人間”をテーマに多くの作品を描いていたが、死んでしまった神は、また再生し、また死を繰り返す存在だったことも描いている。

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 本作『崖の上のポニヨ』では前述した宮崎理念を、誰にでも(小さな子供から老人まで)判るストーリーで、ストレートに表現したファンタジー作品だ。宗介の町は深い海に侵食され、人の暮す町は水没してしまう。だが、皆、笑っていた。悲しんでも、笑っても、時間は同じように過ぎていく。老人も子供も、命の重さに替わりなく、命は大きな系統樹として、個体を超えて繋がって行く。

 圧倒的な生物の数に、命の重さと、儚さを感じ、ハッピーエンドの至福に満たされる。

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ポニヨ/1

食を通じて学ぶ日韓歴史/『食客』映画版5

食客映画1

















心を動かす味
味を感じるのは
舌でなく心である


●食客●
●原作;ホ・ヨンマン
●監督;チョン・ユンス
●出演;キム・ガンウ/イム・ウォニ/イ・ハナ
●DATA;韓国封切り2007年 DVD発売日2009年11/13 115 分

 今年最初のレンタルDVD。暮れにTVドラマ版の『食客』を観た。明るいソンチャンの生き方、演じているキム・レウォンさんの笑顔!、悪人の登場しないドラマに、すっかり『食客』ファンに!!。年明け、TUTAYAの棚を探したら映画版の『食客』も入荷していた。あらら、TVとは随分違う…。。。さて、あらすじと感想など。

●あらすじ

 5年前。“待令熟手”の店として高名な“雲巌亭”では、後継者選びが行われていた。候補の一人は、総料理長の孫オ・ボンジュ。対決する若者は“待令熟手”の高弟を祖父に持つソン・チャンだった。勝負の食材は、最高級のメフグ。皿の模様が透けるほどに薄造りにしたホンジュ。ソン・チャンは薄く削いだフグの身で見事な鳳凰を描いた。二人の腕前に招かれた美食家たちは、感嘆の声を上げる。ソン・チャンの皿の試食。「後味が違う。」「刃物の上に立っているような…」。同時に皆、苦しみもがきだした。大騒ぎの中、一人呆然とするソン・チャン…。毒の処理は完璧だったはず…。納得できないままソン・チャンは店を去り、オ・ボンジュが店の後継者となった。
食客映画P
 中年の日本人男性が大勢の報道陣の囲まれていた。彼の前には、大きく刃の欠けた古い包丁があった。この包丁は、最後の“待令熟手”が自らの手を切断したもの…。彼は、日本人の宴席用の料理を作るのを嫌い、右手を切断。数日後、弟子に看取られながら服毒したのだ。宴会の料理はもう一人の弟子が造った。それが“雲巌亭”の始まりだった。王不在の大韓帝国は戦火の中に沈んでいった。日韓併合の悲しい歴史だ。

 日本人藤原は、当時の政府高官の子孫だった。父から最後の“待令熟手”の悲劇を聞き、彼の包丁を、正統な持ち主に返すことで、なんとか「罪の償いをしたい」と来韓したのだった。その“待令熟手”を探す方法として、藤原が提案したのは文化庁共催の大規模な料理コンテストだった。

 その頃、雑誌記者のジンスは花札賭博容疑で留置所にいた。迎えに来た編集長はジンスを車に乗せる。ジンスと来た場所は、田舎の農家。古い家には、呆けたお爺さんと人なつこい牛がいた。トラックで戻ってきたソン・チャンに、編集長は食事を頼む。だが、編集長の真の狙いは、料理の天才ソン・チャンを料理界に引き戻すことだった。行商しながら自由に生きる生活に幸せを感じていているソン・チャン。彼はコンテストに参加する意志はない。ソン・チャンのトラック行商は大人気、いつも奥さんたちに囲まれていた。行商中、ソン・チャンは、“雲巌亭”の同僚に出会う。彼もホンジュの横暴に嫌気が差し“雲巌亭”を辞めていた。今は焼肉店の婿になっていた。懐かしく談笑する二人の姿を、こそこそ盗み見する男がいた。彼は“雲巌亭”の従業員だった。

 15年前、11歳のソン・チャンはオ総料理長に“雲巌亭”に連れてこられた。庭では、たくさんの調理人がキムチの下ごしらえをしていた。子供ながらソン・チャンは見事な包丁さばきを見せる。ソン・チャンの夢は、「一番の料理人になること」だった。

 焼肉店で会った男はソン・チャンを“雲巌亭”に連れていく。そのには卑怯にもソン・チャンの河豚に毒を塗ったオ・ホンジュがいた。彼はソン・チャンの料理の腕を恐れ、懐柔しようとしていたのだ。ホンジュの傲慢な態度に、ソン・チャンは再び包丁を握る決心をする。いよいよ国中の料理人が腕を競うコンクールの日…。>>>つづきはDVDでどうぞ!!

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 1970年代、香港映画が日本で一般上映始めた頃。たとえば、ブルース・リー主演の『怒りの鉄拳』では、上海租界での悪い!悪い!日本人が描かれた。当時のアジア映画は、日本マーケットを想定していない。日本人は悪役の定番だった。豊臣秀吉の大侵略、明治初期から始まる内政干渉・朝鮮派兵・侵略は1945年夏まで続く。この日本のアジア侵略は、極悪・悲惨極めたものだった。今も中国や朝鮮半島の人は反日感情を持ち、苦い怨嗟の歴史、心に深い恨みと傷を残している。

 本作『食客』は、日本のバイヤーが購入する際、日本人関連部分をカットするように依頼した。しかし、監督はそれを潔しとしなかった。「だったら、売らない!!」。この監督の気骨があったからこそ、ノー・カット版を見ることが出来た。実際、日本人に関して、誇張した悪人として描かれてはいない。きちんと節度ある描写で、軍人の姿を描いていた。この軍人の子孫が、自らの過ちの歴史を詫びるために訪韓する導入も、私は監督の日本に対する「赦しの心」を感じ、「ありがたい」と頭の垂れる思いだ。

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食客映画3 この物語の発端は、最後の朝鮮国王純宗が国が滅亡することを嘆き、断食したことから始まる。最後の“待令熟手”は、国王に別れのスープを作る。この最後のスープが、対決最後の料理になる。この伏線の張り方が実に巧い!!。ソン・チャンのお祖父さんは最後の“待令熟手”の死を看取った高弟。師匠を死なせてしまった罪の呵責から、心を病んでいる。病んだ心で、ソン・チャンに料理の奥義を伝授しようする。TV版では、この設定が日本のマーケット販売に不利とされたのか?、ソン・チャンのお祖父さんは登場しない。また“待令熟手”の死の真相も曖昧だった。今回の映画『食客』で、胸の中でモヤモヤしていた“待令熟手”の死の真相と、“雲巌亭”の立場が判明し、スッキリ!!した。

 また、TV版でコンテストのために、可愛い牛を殺してしまうエピソード。ソン・チャンが買うのは、心臓病の少年が、妹のように可愛がっていた牛のハナちゃん。少年が花の首輪を別れに作ったり、屠殺されるのを知っていながら、「耳の後ろをなぜると喜ぶから、水浴びも大好き、本当に可愛がって欲しい」と懇願するシーンがあった。泣けて、泣けて…、困った。若干、進行が不自然で、ソンチャンのキャラ設定との不一致を感じた回だった。

 今回、コンクールで殺されてしまう牛は、ソン・チャンが家族同然に可愛がっていた牛。このシチュエーションも痛いが、ソン・チャンは自分の人生のために家族同様の牛を犠牲にすることで、勝負への強い意志を感じさせる必然性があった。

 王が最後に飲んだという牛のスープのくだりでは、

「牛を大切に飼育し、農耕、運搬の労働力と働き、死んでからは、体のすべてを食肉として、人に奉仕する牛。牛こそ、朝鮮の精神・国民の宝」

という説明を聞くと、食肉文化の日が浅い日本との文化の相違を強く感じた。牛が眉間に穴をあけられ死ぬシーンで泣く自分…。感傷的な偽動物愛護精神に、強烈な打撃がある。※小3の頃、ペットで可愛がっていたウサギを家人が肉屋に売った思い出がある。やたら泣けるのは、そのトラウマかも…。

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 料理コンテストの進行に沿って、TV版とは違うエピソードが重ねられる。TV版のソンチャンは明るく闊達な長所と、少し乱暴であわて者系、加えて頑迷未熟な欠点もあった。映画版のソン・チャンは無口で職人肌、無欲な人物として描かれる。同じ原作でも、これほど印象の違うドラマになるのか!!、この違いも『食客』の愉しみの1つだ。朝鮮文化らしい華やかな原色を控え、陰影深い画面の色調は物語の根底にある悲劇性に似合っていた。それにしても、韓国料理の奥深い味わい、文化的背景の素晴らしさ!。本物を食べることは出来ないが、画面を通して知ることの喜び!。映画が偉大な文化交流だと、本作を観てつくづく思い知る。

 こっちのオ・ホンジュは少し痛い!!。最後は惨めで泣けますヨ。

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これって破門級?仏法僧を大切に!!。/『達磨よ,ソウルに行こう!』5

達磨ソウル2
















●達磨よ,ソウルに行こう●
●監督;ユク・サンヒョ
●脚本;チェ・ソクファン/ユク・サンヒョ
●出演;シン・ヒョンジュン/チョン・ジニョン/イ・ウォンジョン/イ・ムンシク/
    ヤン・ジヌ/ユ・ヘジン/イ・ヒョンチョル/キム・ソクファン 他
●DATA;韓国 2004年7月9日 101分

 前作『達磨よ、遊ぼう』が面白くて、こっちも観ようと思っていて忘れた(笑)。意外とクリスマス映画なのだ(何故に封切りが7月??)。さて、あらすじなど…。

達磨ソウルポスター

●あらすじ

 冬、山奥の禅寺“銀河寺”。禅僧たちが厳しい修行に明け暮れている。リーダー格のチョンミョン和尚は、ソウルに行くと言う。亡くなった高僧ノス様の遺品を、ソウルの無心寺に届けるためだ。薪割りに退屈していたヒョンガク和尚とまたも沈黙修行中のテボン和尚、何かと口実をつけ、一緒にソウルに行くことになる。寺についてみれば、住職は多額の借金を残し失踪。寺のご本尊には差し押さえの赤紙を貼ってある始末。寺はソウルの中心街にあり、地上げにあっていたのだ。

 赤紙だらけの無心寺には、老いた尼僧と小僧さん、若いムジンお和尚が残っていた。老尼僧に遺品を渡すが、中には切れた数珠が…。借金5億ウォンはすでに返済期限が過ぎ、無心寺は取り壊す運命が待っていた。なかなか立ち退かない3人の僧を追い出すために、開発会社の社員が嫌がらせにやってくる。正義感の強いチョンミョン和尚は「3日後には完済する」と大見得を切る。寺を守るための大法要をする僧侶たちだったが、またも開発会社の社員たちが嫌がらせに!?。彼らはもとヤクザ、今は足を洗って社会復帰に一生懸命なのだった。

 お布施集めの最中、お賽銭箱を持ち去るもとヤクザ…。禅僧 VS もとヤクザ、さて無心寺を守れるのか?。>>>つづきはDVDでどうぞ!!。

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 『風の国』を観ていて、ユリ王の顔が妙に見覚えがあった(?)。『食客』を観ていて、ダルピョン料理人の顔も見覚えが…。あらら、彼らは本作のお坊さんたち!!だった。それに『風の絵師』のパク・シニャンも、前作から出ている。前作ではやくざの兄貴役をしていたのが、今回はベンチャーな屋台のオーナー(?)。スーツ姿のパク・シニョンさんは正統派の二枚目。だが、役でまったく違う印象になる。本作には、ヨンさまのようなメジャーな二枚目は出演していないが、韓国芸能界には味のある男優さんが本当に多い。

 内容は前作を踏襲している。『禅僧 VS ヤクザ』、一種の異文化交流映画だ。どちらも一生懸命、何か悪いと言うことはない。一番悪いのは、借金を残し逃げた住職。開発会社の社員は、利益を出そうと懸命に働いているだけ。法的に守られるはヤクザ側、世間知らずの禅僧たちに勝ち目はない。だが、そこがコメディ、遊んでいるような対決で笑いを誘う。馬鹿馬鹿しいけれど、定石どおり楽しい。

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 さて、脱線。

 韓国のドラマや映画を観ていると、よくお葬式のシーンがある。銅鑼を叩き、赤い面を被った異形の男、旗を立て、綺麗に飾った神輿のような棺を囲んだ葬列が行く。日本も戦前の土葬の頃はこんな葬列があったらしい。だが、今は目にする機会がない。韓国のお葬式では、仏教は関係ないのか???。日本のように和尚さんが読経するシーンがないので、お葬式の全容が判らない。日本のお寺はお葬式産業の一端を担い、信仰に関わらず墓地販売と管理も生業だ。よほどのことがない限り、地上げはないように思うし、そもそもお寺は檀家さんのものなので、和尚さんの勝手には出来ない(大抵の場合)。

 映画の中だが、無心寺には墓地はないし、銀河寺にも墓地はない。こんな近くて遠い国の文化を知るのも映画の愉しみの1つだ。理屈でどうこうと言う映画ではない。純粋に楽しむのが正解の映画。無心寺の若い僧が美男(笑)。多少、下品な部分もあるので、その点だけは笑って許そう!!(笑)。

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達磨ソウル1

無国籍風!ゴ-ジャスで不思議な新感覚時代劇!?/『GOEMON』4

映画goemon
















●GOEMON/ゴエモン●
●プロデューサー:一瀬隆重、紀里谷和明
●監督:紀里谷和明
●脚本:紀里谷和明、瀧田哲郎
●原案・撮影監督:紀里谷和明
●DATA:2009年5月1日公開
    松竹、ワーナー・エンターテイメント・ジャパン

 5/7に高崎109シネマズにて鑑賞。父が「『五右衛門』が見たいと言う。父の趣味とは違う映画なので「????」と思ったのだが、連れて行くことにする。案の定と言うか?やっぱりと言うか?、違う作品と勘違いしていた(笑)。そんな訳で、見ちゃったので、ざっと映画のあらすじと、感想など…。

●あらすじ

 時は1852年。信長亡き後、天下は豊臣秀吉の手にあった。戦乱の世は終わり、不夜城大坂タウンは巨大な自由市場となり、多くの人々の活気と喧騒に溢れていた。花火が上がり、異国情緒溢れる山車が練り歩く。祭りの夜、怪しい男が錠前を開けようとしていた。男の名は石川五右衛門。大坂一の分限者紀伊国屋の宝を狙っての錠前破りだった。

 幾重にも絡んだ複雑なからくりが開き、蔵の中には金銀財宝が積み重なっている。その蔵を狙っているのは五右衛門だけではなかった。五三の桐の紋に身と包んだ男たちが屋敷の門前にいた。男は豊臣政権の五奉行の一人石田三成とその部下だった。三成の目的は、文左衛門が持っている南蛮の小箱。文左衛門を脅し、蔵に入った時には、すでに小箱は五右衛門の手にあった。逃げる五右衛門と追う三成達。哀れ、文左衛門は冷たい骸を晒す。

 そうとも知らず、五右衛門は手に入れた小判を町衆に撒き、ご満悦の態。くだんの南蛮の小箱は、五右衛門の手を離れ、偶然にもスリを生業とする少年の手に渡る。さて、三成が執心する南蛮の小箱にどんな秘密があるのか?>>>つづきは劇場でどうぞ!

●役名&キャスト:
 石川五右衛門:江口洋介 霧隠才蔵:大沢たかお
 浅井茶々:広末涼子   猿飛佐助:ゴリ
 石田三成:要潤     又八:玉山鉄二
 織田信長:中村橋之助  服部半蔵:寺島進
 千利休:平幹二朗    徳川家康:伊武雅刀
 豊臣秀吉:奥田瑛二

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 さて、父の感想だが、「面白かった」とのこと。そう言えば大概半分は寝ちゃう人なのに、意外と起きて見ていた。私もけっこう最後ははまって、感動したりしていた。男の友情系の映画にはどうも弱い(笑)。

●まず辛口な感想。

 監督は紀里谷和明さん。『CASSHERN・キヤシャーン』が印象に残っており、なんとなく敬遠していた。低予算の中、高画素数のCGを駆使して映画を作るのは難しい。そこで紀里谷さんが編み出した技(?)は実写部分のコントラストを強くし、CGとなじませること!?。CM的なスタイリッシ映像とか、デザイン的と印象表現も出来るのだが、長時間見るにはキツイ。ゲームの画面を見ているようで、時代劇としては不自然に見える。

 上述は私の個人的な感想なので、彼の映像表現が好きなファンには、まったく問題ない。彼は日本的職人技映画とは違う視野で仕事をしているのだろうと、思うだけだ。ところどころ『影武者』『夢』など、晩年の黒沢作品と似た雰囲気もある。紀里谷さんは、きっと黒澤明が好きなんだろう〜な〜とか思う。判っていても、草原のCG表現や城のデザインなど、荒い仕事が目につき、なかなか紀里谷ワールドに入れない。

 美術監督が若いのだろう。強く感じるのは『スターウォーズ』の影響。甲冑白づくめの大軍はどうみても帝国軍!?。ファイナルファンタジーのキャラ風のゴエモンの衣装、吉野太夫の髪型、秀吉のヨーロッパ風衣装、茶々のドレスなどなど、時代考証無視の小劇団風衣装に、???な違和感が先立つのだ。だってね〜、、、カラーコンタクトを皆さんしてらっしゃる。演じることって眼差しの力が大事だと思う。その眼差し、瞳を人工物が覆う。リアルがどんどん遠ざかってしまうのだ。

 違和感の原因を考えてみる。あれも、これも、監督のデザイン的な意図なのだろうが、共同作業の中でイメージが変質しているのでは…。この世界観を」フルCGのアニメーションでやれば…。と、いささかつっこみたくもなった。アニメだったら、すごく良いんだけどな〜。。。

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●次は甘口な感想。

 才蔵役の大沢たかおさん!!。すご〜く良いです。クールで熱くて、それに優しい。それに比べて、主役の五右衛門は自己中で子供っぽいのだが「そこがまた良い」と言う女心をあざとく計算したキャラ設定。ワルぶっていても、実は繊細で優しい男の中の男の2パターンを、江口さんと大沢さんで演じている。

 また脇役がすごく良い!!。秀吉の奥田英二さんの悪人ぶり、千利休を演じた平幹二郎さんの怪しい雰囲気、広末良子さんの儚い風情…。日本の安土桃山時代にインスパィアーされたファンタジー系SFとして鑑賞すれば、☆5つ!!な出来栄えだ。強い仁王系のキャラには文字通り巨漢のチェ・ホンマンさんが登場。なかなか巧い演技を見せている。また、凄い!と思ったのは中村橋之介さん演じる織田信長!!。中世ヨーロッパの甲冑を着ていても、しっかり信長していた。伝統芸の世界の人は凄い!!。

 加えて、CGで作った幻想的な風景がすこぶる綺麗!!。滝の庭のホタルが飛び交うシーンは秀逸だった。江口さん、大沢さんのファンなら100点満点の娯楽作だ。

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 今回の作品を見て紀里谷さんの印象が変わった。彼はビジュアリストとして評価を得ているが、実はストーリーテーラーとしての才が勝っているのではないだろうか?。彼がもっとベーシックな映像美を追求するなら、もっともっと素晴らしい作品が生まれると確信する。次回作で紀里谷ワールドの新境地を見たい。

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打倒!身分制度なプロパガンダ!?/映画版『ファン・ジニ』4

ファンジニ/映画




























●ファン・ジニ●
●原作;ホン・ソクチュン(朝日新聞出版)
●監督;チャン・ユニョン
●出演;ソン・ヘギョ/ユ・ジテ/リュ・スンリョン/
ユン・ヨジョン/オ・テギョン/チョン・ユミ/チョ・スンヨン 他
●DATA;2007/韓国/141分

 TV版の『ファン・ジニ』はすご〜くハマって見ていた。感想はのちほどアップの予定。今日は映画の方の『ファン・ジニ』の感想をば…。

●あらすじ

 孝行門と呼ばれる両班黄家。名門黄家には一人娘チニがいた。そのチニの傍らには、母に捨てられた孤児ノミが影のように寄り添っていた。まだチニが幼い頃、チニは「提灯祭が見たい」とノミにせがむ。両班の娘は外出は禁じられていたのだ。ノミは、ばあやに内緒でチニと提灯祭に出かける。賑やかな庶民の祭り、夢のように楽しい時間を過ごしたチニ。だが、家にもどったノミは主人の黄に激しく叱責され鞭で打たれる。チニは「ノミは悪くない」と泣いて懇願する。それから間もなくしてノミは黄家を出ていく。

 十数年の時が経ち、黄家の裏山にノミの姿があった。主人の死んだ後、黄家は以前のような賑わいを失っていた。チニは美しく聡明な娘に成長していた。もうすぐ漢城の両班の家に嫁ぐことになっていた。街で黄家の没落を聞いたノミは、黄家に戻り執事として働くことにする。チニのばあや、使用人のイグミはノミの帰還を喜ぶが、チニの心は複雑だった。執事となったノミはまた裏山の高台から黄家を見下ろしていると、「両班の屋敷を何故見ている」と話しかけられる。その女は旅の技生で、かつては黄色の使用人だった。ノミはその女から、恐ろしい秘密を打ち明けられる。それは…。>>>つづきはDVDでどうぞ!!

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ファンジニ/本

 NHKで放映されていた『ファン・ジニ』と同名だが、原作違い(TV版の原作はキム・タクファン)の映画化。以前も書いたが、『ファン・ジニ』は、16世紀に実在した伝説的な名妓を題材とした物語。ウィキペディアに【朝鮮の詩人 黄真伊=明月;生没年は約1506年 - 1544年頃】とあるので、中宗時代に38歳で死んだことになる。

 断片的な詩=時調とコムンゴ(琴)の編曲楽譜が残っているだけ、その残っている詩の素晴らしさや、編曲の巧さから、彼女が卓越した才能の持ち主だったと推測されているそうだ。残った詩の断片は失った恋人を歌ったもので、なんとも小説家や芸術家のインスピレーションを刺激する存在!だ。

 TV版と映画版、二人の作家は同じ人物を描きながら、まったく違う視点で彼女を分析している。TV版は、チニとウノの悲恋、チニと松都ペンム行首との確執、プヨンとの芸競い、キム・ジョンハンとの別れなどなど、沢山のエピソードがチニの生涯を彩るが、チニはしっかり青春しつつ成長している。だが、映画版はいささか趣きが違う。映画版は、身分制度の中で、世を恨む孤高な娘が本当の愛を知り、そして愛を失う物語だ。

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 TV版では明月の護衛を務めていた無名=ムミョン。映画版ではノミ=無知として登場する。チニを愛している余りに、チニを不幸のどん底に落とす男!!。彼が犯した罪の償いは余りに悲しい。愛するがゆえに犯す罪…、そのノミを愛するチニは、身分制度そのものに対し、反骨を貫く。TV版にしろ、映画版にしろ『ファン・ジニ』は、身分制度に馴染まない今の日本人には、なんとも納得いかない不条理が多い。両班のお嬢さんだったチニが、なんで家を出て選ぶ職業が妓生なのか?。それしか生きる道はないのか?。????だったりする。加えて、TV版・映画版とも共通しているのだが、チニの両班に対する恨みは本当に根強く、強烈!だ。

 その物語を鑑賞するための蛇足になるが、長く同一王朝が続いたため、朝鮮半島には厳格な身分制度が産まれた。良民(両班>中民>常民)と賤民(奴婢>白丁)と区別され、技生は下層階級の奴婢に分類されていた。良民と奴婢の間では正式な婚姻など成立せず、もし賤民階級の男が良民の娘と恋仲になれば、死罪にもなる大罪となる。


 その中で、妓生は低い身分でありながら、王族や両班の相手を務める特殊な存在。特に官に属する一牌妓生は、高い教養と技芸を求められ、豪奢な衣装の着用も許される特権階級。没落した両班の娘なども多かったそうで、気位も高いのは当たり前!!。元お嬢様が売春しなくちゃならない!?!?!?、ハチャメチャ!!に矛盾した存在なのだ。この前提で『ファン・ジニ』を観ると、彼女の意地悪ブリ(笑)が、少しは納得いく。

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 TV版は赤やピンクを多様し、豪華な衣装や丁度が評判だった。だが、映画版は陰影の多い画面づくりで、全体に押さえた色調になっている。映画のチニは化粧も地味で、緑や黒を基調とした衣装を着ていた。華やかな踊りのシーンもなかった。

 画面に漂う死の影…、顔も知らずに死んだ母、チニに恋いこがれて死んだ若者。二つの葬列が物語の重要なシーンになっている。どんなに評判の名技になっても、彼女の顔は暗く、物思いに沈んでいる。チニの心は半分死んでいる。存在そのものが不幸だと自ら烙印を押した人生はどれほど辛いものだろうか…。身分制度の愚かさをしみじみと感じる。

 ラストシーンは北朝鮮でロケしたそうだ。雄大な山河が美しく、なんとも儚く美しいシーンだった。

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朝鮮王朝末期の混乱を活写した名作!!/『酔画仙』5

酔画仙



●酔画仙●

●監督;イム・グォンテク
●出演;チェ・ミンシク/
    ソン・イェジン/
    アン・ソンギ
●DATA;2002年/韓国/119分


 19世紀に実在した画家“張承業/吾園(1843〜1897)”を描いた作品。張承業=スンオプを演じるのは、『オールド・ボーイ』のチェ・ミンスク。リアルさを追求した演技で、吾園の実像に迫っている。さて、どんな映画かと云うと…。

●あらすじ

 1882年の朝鮮、外国の侵略と腐敗政治、反乱などで国運は傾いていた。

 多くの士人画家・文人(両班階級)の衆目の中、当代きっての人気画家“吾園”が墨痕も鮮やかに、大胆に筆を動かす。煎茶を飲み、待つ間に、絵は見事に出来上がった。吾園の「完成しました」の声に、絵は披露され、人々は口々にその素晴らしさを漏らす。「神の絵だ」、「鬼神が舞うように神秘の趣きが漂っている」、「型破りのようで様式を備えている」そんな褒め言葉に吾園は「私の絵に様式を語るなかれ」と言い放つ。その不遜な態度に、「賤民出身の三文画家が様式を口にするな」「貧しい才能を信じたら人生帽に振るぞ」と鋭い声が飛ぶ。その場を去る吾園の背中は穏やかだった。

 その足で向かったのは、次ぎの酒席だった。料亭の座敷で待っていたのは日本人の新聞記者海浦。彼は吾園の絵を偶然知り、絵の注文をしたいと席を設けたのだ。海浦は記者らしい質問をする。「先生は、賎しい身分の出身と聞きましたが、いつ頃、絵の才能に気づかれたのですか?」。吾園は云う、「天才は若い時から、頭角を表すものだ」。破顔して豪快に笑う吾園だったが、心中は貧しく辛い少年時代を思い出していた。

 貧民窟のような下町で、みじめな姿の幼い少年が男の折檻と受けていた。少年の名はスンオプ、男は物乞いの親方だった。偶然、通りががかった身なりの良い士人が少年を助け、自分の屋敷に連れ帰る。士人の名はキム・ビョンムン、開化派に連なる儒学者だった。何日も経たないうちに、両班の家の生活になじめないスンオプは逃げ出してしまう。彼の画業はまだ始まっていない。>>>つづきはDVDでどうぞ!

●張承業の生きた時代
1863年 高宗即位(11歳の為大院君摂政に)【吾園18歳】
1866〜1872年 丙寅教獄(キリスト教徒八千人処刑)
1870年頃 開化派結成(親日派による独立運動)
1866年 丙寅洋擾(フランス軍と衝突)
1871年 辛未洋擾(アメリカ軍と衝突)
1873年 閔妃一派クーデター大院君追放
1876年 日朝修好条規(日本軍江華島侵入)
1882年 壬午軍乱(大院君クーデター失敗) 
1884年 甲申政変
1894年 甲午農民戦争(農民ほう起勃発)
1895年 乙未事変(王妃閔妃暗殺)
1897年 国号を大韓帝国改称【吾園死去】
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酔画仙
 本作『酔画仙』は、日本の幕末から明治中頃までの朝鮮半島が舞台だ。上記した年表で判るように、末期王朝は、高宗の父大院君と、高宗の妃閔妃一派による権力闘争が繰り返され。外交面でもトラブル続き、保守的な親清派と、改革を目指す親日派が衝突を繰り返していた。

 初見の時は、時代の暗さ、スンオプの人生の重さに、息苦しいものを感じた。前回、紹介した『ニキフォル』が世俗と無縁の画家だとしたら、“張承業”は対極にいる。俗世の荒波に揉まれた彼の人生は苦しみの連続だ。だが、二度、三度と見たくなった。

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 いつもどおり、映画の感想を書こうと思ったが、なんだか気楽に書けない気分だ。何度、書いてもしっくりしない。朝鮮半島は、お隣りの国のことなのに、知らないことが多すぎる!。

 映画の序盤、吾園を尊敬する日本人新聞記者が登場したり、日本軍が漢城(ソウル)市内を行進するシーンも好意的な台詞がかぶる。かつては反日感情も強かった韓国映画で、こんな風な日本人の扱いは珍しく感じた。時代背景を調べると、吾園の精神性の師匠だった儒学者キム・ビョンムンが開化派を名乗ったことで、合点がいった。“開化派”は、日本の文明開化を見習い、清からの独立と近代化を目指す両班グループの名称だった。

 日本は日清戦争の勝利を経て、結果的に大韓帝国を統治することになる。誇り高い朝鮮王朝や、教養豊かな両班、気骨ある庶民のいる朝鮮半島が何故、日本に占領されることになったのか?いつも不思議に思っていた。この映画『酔画仙』を見たあと、年表を見ると、今までの不思議が氷解した。王宮の混乱、内乱、弾圧、大量処刑、一つの国が滅んでいく様子が、画家の生涯を通して、鮮やかに浮かび上がってくる。画業の精進と一緒に描かれるのは、美しい朝鮮の山河、草木、風月だ。歴史がどんなに過酷であっても、山河は雄大であり、花々は限り無く美しい。

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 印象的だったのは、もう一人の主役とも言える学者キム・ビョンムンだ。アン・ソンギの落ち着いた演技は、物語に柔和な品格を与えていた。模写で腕を磨くスンオプに「目で見える筆先よりも、大切なものがある」と「筆より先に志を立てねばならない」と教えている。この言葉は、表現者としてのスンオプを大きく成長させる。絵を描く人には、きっと身につまされる台詞かもしれない。

 リアルに性的なシーンもあり、万人向けとは言えないかもしれない。画家の人生や、細かいエピソードの感想はあえて書かない。これは、見て感じるしかない。※のちほど加筆修正します。

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残忍さと美意識の映像叙事詩!?/『武士ーMUSA』4

武士/03




































●武士ーMUSA
●監督;キム・ソンス
●出演;チャン・ツィイー/チョン・ウソン /チュ・ジンモ/
    アン・ソンギ/ユー・ロングァン/パク・チョンハク
●DATA;韓国/2001年作品/133 分

 市内3店で繰り広げていたDVDレンタル・セール終了間近…。1店は閉店(50円レンタル)することで、この競合店の価格競争は終止符を打つことになった。1年足らずだったが、底値(旧作50円〜/新作199円〜)でレンタル出来たので、3つのお店には感謝している。

 本作は映画館で未見。タイトル『武士』に食指が動かず、いままで未見だった。見終わって、アマゾンでDVDを注文してしまった(汗)。タイトルだけで中味に偏見を持ってはいけないと痛感!。さて、どんな映画かと云うと…。

●あらすじ

 灼熱の沙漠、流刑地に送られる虜囚が果てしなくつづく砂の中で、次々と生き倒れていく。時代は元滅亡、明の始め頃、1375年。高麗は元と友好関係にあったが、新しく中国の覇者となった明とは、明使節の殺害事件があり、強い緊張状態にあった。南京に入城した彼等を待っていたのは、歓待ではなく、兵士の弓矢だった。使節団を守る龍虎軍将軍チェ・ジョンは戦おうとするが使節に押しとどめられる。彼等は沙漠の果ての流刑地に送られることになったのだ。流刑地近く、一行を元の騎兵団が襲いかかる。明の護送兵は皆殺しにされるが、元の将校は「高麗人の生死には関与しない」と使節団を沙漠に置き去りにしていく。食料も水も乏しい一行は、故郷を目指し、沙漠の中を北に向かうこととなる。

 帰路の沙漠の中で、使節団の老いた高官が生き絶える。彼には忠実な奴婢の若者が寄り添っていた。死の真際、高官は「彼はもう奴婢ではない。人間として扱ってくれ」と言い残す。龍虎軍将軍チェ・ジョンは主人の遺体を故郷まで運ぼうとする若者を残し、出発してしまう。高麗使節団の一行は、沙漠の終わり、隊商の天幕に到着する。そこには高麗に帰還する修行僧がいた。僧の金で食事の出来た一行。また、明の姫君芙蓉を護送する元の軍隊が現れ、主人の遺体を運ぶ若者も到着する。

 龍虎軍将軍は、芙蓉姫から血で書いた「救」の字のハンカチを渡される。高麗に帰りたい者、姫を助け使節団の職務を全うしたい龍虎軍将軍、解放された奴婢の若者、姫を護送する元軍の将軍、さまざまな思惑と宿命が交錯していく。姫を奪った高麗の一行、追う元の騎兵隊…、彼等の運命は?姫は南京城に帰れるのだろうか?>>>つづきはDVッでどうぞ!

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武士/2
 日々、レンタルDVDを見ても、自分で購入しようと思う作品は少ない。だが、本作は「手元に残して置きたい」と思った。正直、チョン・ウソンの演じる若い奴婢の長髪に惑わされて、思わず(?)注文してしまったのだ。誰が主人公が判らないほど、作中に魅力的なキャラが複数いた。日本人俳優はどこか美男系でも、親しみやすさが勝ってしまうように思う。しかし、韓国系美男俳優は、親しみやすさを排除した、マッチョでクールな魅力が全面に出ている。そこが本作の最大の魅力だ。加えて、軍馬の躍動感、迫力ある戦闘シーン、殺傷シーンのリアルなディテール、血生臭いと思うシーンが本当と活き活きと、映像化され、そこも本作の魅力。

 韓国の時代劇には2種類あるように思う。恋愛色のあるものと、まったくないもの。本作『武士ーMUSA』は後者に属する。恋愛なら、男女の主人公にフォーカスするので、お話が判りやすい。本作は、軸となるストーリーが希薄、群像劇になっている。

 中国系人気女優チャン・ツィイーが芙蓉姫として主演しているが、彼女は誰に恋をする訳でも、誰かに愛される訳ではない。なんとなく“綺麗なお姉さん”程度の扱いなのだ。
 龍虎軍将軍チェ・ジョンと彼の武官、弓名人の隊正、高官と彼の奴婢、通訳官見習の若者、元軍の将軍、芙蓉姫、僧侶etc、彼等には、勿論のこと、それぞれの人生がある。さまざまは伏線が語られることのない部分に隠されている。、複数の主人公になりうる個性がそれぞれ物語に関わっていくのだが、残念ながら2時間程度では断片的にしか判らない。『武士ーMUSA』は連続TVドラマとして、もっと長尺で制作された方が良い作品だと思う。

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 また、何故、姫が誘拐されているのに、明軍が出兵していないのか?また、沙漠を餌や水のない状態で、馬で越えられるのか?あれこれ謎だが、ま〜、そんなことは余り、本作の魅力とは関係ないのかもしれない。タイトルの“武士”って概念が大陸にあったのか?微妙な感じなのだが、『武士ーMUSA』は、時代劇系ファンタジーとして見るのが、正解なのかもしれない。

 人の生き死にの描写が軽いのは韓国作品の特徴の1つ。人気韓国ドラマ『朱蒙』でも『蔗童謡(ソドンヨ)』でも兵士の死亡シーンが頻繁に出るが、日本時代劇のそれ(桃太郎侍的な)のように、血糊も、肉片もまったくない。だが、本作は人が死ぬ時の凄惨さが、十分に描かれているように感じた。このリアルさが、本作への好悪を分けるかもしれない。本作『武士ーMUSA』で一番感じることは、歴史の無惨であり、人命の犠牲の中で、歴史は刻まれていると云うことだ。

 日本の歴史はあまり大陸の盛衰と関わりを持たないが、朝鮮半島のそれは、「大国中国の干渉の中で、絶えずに苦労を重ねて来たのだ。」、そんな感慨に溜め息が出てしまった。

 美男子好きな人にはお薦め!でもちょっと後味悪いかも…。

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